被災地支援の最前線

〜 目 次 〜




1・被災者支援活動を開始するにあたって

2011年4月18日

 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が起こった時、「蜘蛛の糸」の事務室で打合せの最中であった。その瞬間、秋田市も震度5で大きく揺れた。停電した階段を外に出て、頭上で揺れる電線の振幅に、秋田を襲った日本海中部地震(昭和58年5月)の揺れを思いだして、相当規模の被害が出たのではないかと直感した。それでも、震源地が宮城県・牡鹿半島沖と知った段階では、被災地の海岸線の長さと市町村が散在する地形を考えると、ある程度の被害で治まるかも知れないとの期待があった。
 しかし、大震災の被害はあまい期待を打ち砕いていった。大津波は、あっという間に死者・行方不明者2万6千余人のいのちをのみ込んだのである。倒壊家屋14万戸、避難者13万人は戦後最大の惨事である。被害現場の現状は、テレビ映像の凄まじさもあって時間が立つに連れて私のこころを押し潰していった。思考回路を断ち切られたかのようにこころが凍結した。米国シンクタンクが公表した衛星写真には、福島第1原発で損傷した4号炉から噴煙が昇っていた。高濃度放射能漏れである。マスコミ報道を見ながら「何かできることはないか」という気持ちと「いまは動いてはいけない」と感情が葛藤していた。へたに動くと自衛隊や警察、医師等の救援活動の邪魔になるという判断もあったが、同時に、登山で遭難しかけた時の体験が頭を持ち上げた。
 趣味で約50年間山歩きしている。一人歩きが多いので奥羽山脈の下山路で何度も道に迷った。道に迷った時は動かないことだ。登山路の分岐点にどっかりと座り込む。天候、地形から現在地を確認し、残された食料と体力と時間を計算する。あとは過去体験を信じて動物的勘の立ち上がる時を静かに待つ。「何かやらなければならない」と思いつつ「何ができるか」の考えが湧かないまま、動物的勘が立ち上がる時間を待った。

被災者に暖かな春が待たれた3月下旬、被災地に雪が降った。生死の存亡に降り注ぐ非情な雪であった。雪の中で両親の名を呼ぶ子供の姿に思わず涙が流れた。その頃から思考回路が少しずつ動き始めたようだ。津波や地震はまぎれもなく自然災害である。だが、福島原発の放射能漏れ事故からは人災であると考えるようになった。放射能汚染の避難、農産物の風評被害、立ち入り禁止区域の設定等は人間が作った原発が引き起こした人為的被害である。被災地には国、地方公共団体、ボランティア等の社会的支援がされているが、避難者の支援は手薄になっている。
 秋田県に避難されている皆さん(約1700人)の支援にあたろうと結論づけた。県内での活動なら民間団体でも出来る筈だ。思考の迷路に方向性が見えた。まずは、被災地の実態を知らなくてはならない。迷っているときは現場に立つ。現場で悲しみを共有し、現場で思考を構築し、現場で実践するのが蜘蛛の糸の活動の原点である。今日(4月18日)から被災地で支援活動をスタートさせることにした。

岩手県釜石市・避難所にて

登山道具で被災者に果物、味噌汁、
お茶、コーヒーを配る準備

2・被災地にひるがえる希望の旗

2011年4月19日(岩手県大沢温泉自炊部にて)

被災地の岩手県釜石市に最初に入ったのは2011年4月18日である。東日本大震災発生の日から39日後であった。対策の思考を構築するためには被災現場を知らなければならない。思考を検証するための初動が今日であった。訪れる目的は、秋田県に避難されている被災者の支援活動と現地での相談体制をつくるためである。
 雲一点も無いほどに晴れ上がった秋田市を朝6時半に発った。自宅から、近道の広域農道を通って桜の名所「角館」を経由し仙岩峠を越えた。現地に入る前に現地の情報を得なければならないと思い、対策本部のある岩手県社会福祉協議会に着いたのは9時半であった。それから、共催パートナーの岩手県信用生協を訪れ、現地での相談体制についての打合せを行う。被災地の釜石駅に到着したのは午後1時である。

 登山靴に履き替えて甲子(かっし)川にかかる橋を渡った。目の前に広がる商店街は破壊されたままであった。時計の針が止まったような非日常な風景に言葉を失った。道の両側はうず高く詰まれた瓦礫の山。アーケード下の通路はトタン、商品、鉄屑、泥が積み上げられていた。むきだしになった建物の鉄骨が津波の破壊力のすさまじさを示していた。街中に粉塵が漂っている。横転した車、車体の半分がねじ曲がった車、住家の庭先に逆さ吊りの車、潰れた車は同乗者の犠牲を連想させる現実感があった。
 廃墟に化した中心商店街のどこに再起の希望が見えるのであろうか、と思いつつ希望の象徴を探して4時間歩いた。釜石港の全景を眺望しようとして商店街の背後の高台に登った。上り斜面の住宅の2階の壁面に「13.5メーター」の標しがあった。津波の押し寄せた高さである。自宅前の汚泥を掃除している一人の年配者に声をかけた。
 「少しはおちつきましたか」と。怪訝な顔になった。それでも話かけると「こういう時は苦労した人間は強いよ」といった。すかさず「何年生まれなの」と聞いた。「昭和18年生まれだ」との答えが返った。「なんだ、俺と同級生じゃないか」と笑いあって1時間位の立ち話になった。「俺は中卒で集団就職をしたから若い時から苦労ばかりだ。この位の災難には負けないよ。いま2階に泊まりこんでいる」。
 電気も水道も止まった我が家で寝泊りしていた。昼は山の水源まで水汲みや自宅の片付けであった。海側の隣家は粉々に崩れていた。「体を動かしているから夜はぐっすり寝るよ」と白い歯をみせた。「来月また来るよ。必ず顔を出すから元気でね。」・・・・。「もう、ここにはいないかも知れない。東京に出稼ぎにいく」。たくましい答えが返ってきた。

 坂を下ると釜石港の近くのビルの屋上に「大漁旗」が風にひるがえっていた。青空を背にへんぽんと希望の大漁旗がなびいていた。1階が崩れたビルの2階の窓にも「ガンバレ、釜石」の文字が貼られていた。地域住民はどん底の被災地で必死に立ち上がろうとしていた。「がんばれ、釜石」と思わず声をあげた。瓦礫の撤去現場に五分咲きの桜が咲いていた。無人のビルのベランダから黄色いレンギョウの花が垂れていた。
 悲しみの被災地にも季節の春は巡っている。絶望のどん底で希望をかかげる人達の息吹があった。「がんばれ、釜石」。時の経過とともに必ず生きる希望と勇気が戻ってくる。いまはじっと耐えてほしい。季節の移ろいが悲しみを和らげ希望と勇気を運んで来るまでは・・・。  

破壊されたビルに咲くレンギョウの花(釜石市)

瓦礫の撤去現場と5分咲きの桜(釜石市)

3・春雪の舞う釜石

2011年4月20日(岩手県釜石市の現地にて)

 朝5時に、宿泊地の花巻大沢温泉で目が覚めると底冷えの寒さであった。谷間の渓流沿いにしがみつくように温泉宿がある。対岸の芽吹きを待つ樹木の枝に冷たい雨が沛然(はいぜん)と降り落ちていた。朝食を済ませての出発は朝8時であった。花巻経由で国道283号線を2時間かけての釜石に向かう。
 震災後1ヶ月以上経過したが、現地の宿泊状態は極端に悪い。港の近くのホテルは津波に洗われて残骸になっているし、主な公共建物は自衛隊や警察、救命部隊の拠点になっている。釜石から40キロ程西に位置する遠野市はテレビ、新聞等のマスコミ各社の報道拠点に押さえられている。被災者支援の相談は宿の確保が最大の難関になる、と考えながら走行する前方は深い霧に霞む山稜であった。遠野市を過ぎ、仙人トンネルを抜けると、昨日とはうって違った陰鬱な雨に煙る市街地であった。

 今回の被災地訪問の目的のひとつは、体とこころに被災者の絶望や悲しみをぶちこむことにある。相談に応じる前に悲しみを共有するこころ構えをつくり上げなければいけない。こころを「無」にして現地の風景と悲しみをこころに深く刻みこむ・・・。被災者を下から支える必要があるからだ。10時に岩手信用生協釜石相談センターに到着。高田支店長と今後の日程について相談を行う。最初の相談会は5月13〜14日の2日間。とりあえず期間は1年間、相談員は4〜7名程度、場所は岩手信用生協釜石相談センターとの確認を終えた。
 それから避難場所の中学校に向う。避難所は屋内体育館であった。運動場の周りには桜が咲き、黒い霊柩車が駐車していた。持参の山の道具でお湯を沸かし、お茶とコーヒーと味噌汁を作って被災者に振舞う。両手で合掌しながらお茶を受け取るおばあちゃん、中年夫婦、子供連れの女性や本を読んでいる若者、毛布に包まって眠っている人。畳2枚程の狭いスペースに一家族が寝起きしている。プライバシーが保てない共同生活に疲労感が漂っていた。このままでは日を追う毎に体力、気力が弱まるのではないか、次第に自宅や仕事や家族を失った喪失感の坂を下るときが来るのではと心配になった。

 今日(4月19日)の釜石は気温が下がった。廃墟の町に希望をかき消すように無常の霙が降った。雪混じりの風の中で希望の「大漁旗」だけが元気に揺れていた。港の近くの商店で、泥だらけの商品を洗っているご夫婦と息子がいた。非礼とは思いながら、あえて尋ねた。「また、この場所で商売を始められますか」と。「どこでやるかはわかりませんが、また、必は商売を始めます」と中小企業経営者の心意気を示した。復興を感じさせる意気込みであった。
 帰路に、幾つかのトンネルを抜けるたびに横殴りの雪は激しさを増した。国道の温度表示計は「0度」を示していた。昨日は桜五分咲きの春景色、今日は一転して吹雪の冬景色。絶望と希望が交錯する被災地の「いま」を暗示するような2日間であった。

雪まじりの空にひるがえる希望の大漁旗(釜石市)

霙の降る釜石で復帰にかけて頑張る商店主(釜石市)

4・はるか彼方の被災地の復興

2011年5月13日(岩手県花巻市ホテル「いわて東和」にて)

今日(5月13日)から岩手県釜石市での相談が始まった。前回の訪問から一ヶ月が経過した。「釜石」の商店街に復興の兆しが生まれているであろうかと、期待の入り混じった気持ちで花巻市のホテルを発った。低く垂れ込めた雲から小雨が降りしきっていた。283号線を走るにつれて次第に空は晴れ上がり、新緑の山膚に春霞のように山桜が咲いていた。眼下に望む「遠野物語」の集落には真紅の桃花と絨毯を敷き詰めたように黄色の菜の花が咲いている。釜石の入り口で、被災地に向かう救援隊の工事車両と通勤の渋滞に巻き込まれ、70キロの行程を2時間半かけての被災地入りである。

まずは、釜石市保健所を訪問。保健師に相談チラシの配布をお願いする。それから商店街へ。とにかく商店街を歩こう。被災地の変化を体全体で感じなければならない。甲子(かっし)川にかかる大渡橋をわたり「大渡り商店街」の入り口に立つ。瓦礫はきれいに撤去されていた。アーケードの歩道も清掃されている。商店や事務所の入り口はベニヤ板で塞がれ、シャッターが下りていた。一見は復興が進んでいるかに見えた。しかし、数百メーターも歩かない内に安堵の気持ちは裏切られていった。瓦礫の撤去が終わったのは商店街の三分の一にもすぎないのだ。汚泥と商品とトタンが混じったゴミの山が歩道を塞ぐ。バックホーンが建物を取り壊す音。シャベルローダーでダンプカーに廃材を積み込む喧騒。細かい塵が舞い、臭気が漂う。工事車両が行きかう戦場のような現場だ。

今日は相談者がいない。午後からは新田国雄さん(60代)に会いに行った。前回の訪問の時、釜石港の全景を見ようとして高台に登った。グランドに張られたテントの中で炊き出しをしていた。炭火の上でマグロの頭(かまち)がジュウジュウと音を立てていた。50センチもの「マグロのかまち(頭)」だ。「うまそうだね」といったら「たべれ」「たべれ」の声が返った。新田さんに身をほぐして貰いながら、たらふく塩振り焼きマグロをご馳走になった。

一ヶ月後の新田さんは元気であった。炊き出しの場所も高台から集会所に変っていた。震災前の新田さんは家族で魚の加工業を営んでいた。3月11日、地震に襲われた時、自宅で津波に襲われた。自宅は港から30メーターも離れていない。背後は急斜面の山だ。真っ黒な海に「ぷかぷか」浮かんだという。隣家が流されて来て新田さんの住宅に衝突した。もともとは漁師だから泳ぎは練達している。漂流物との衝突を避けるために津波の下に潜った。そこは、砂と泥の入り混じる真っ暗な世界であった。「おれは長いあいだ海に潜っていた。海は青いものだと思っていた。真っ黒な海があることを初めて知ったよ」と新田さんの弁である。急傾斜地のコンクリートに張られた鉄線にしがみついた。高台から消防隊の投げ入れたロープで救出されたのである。まさに九死に一生であった。港の光景は助けを求める人、濁流に流される人の生き地獄であったという。話を聞き終えてから釜石港の近くにある新田さんの自宅にむかう。

木造の自宅と加工場は無残な姿であった。住宅の前は瓦礫が散乱して手がつけられない。被災の日からは町内住民の死者・行方不明者の捜索である。その後は救助された人への炊き出しで翻弄された。自宅を片付けようにも休む間も無い日々の連続である。血圧が210もあるといった。「この建物を見てくれ。片付ける気力もわかないよ。後ろの山の崖崩れの心配もある。これからどうなるか判断がつかない」と新田さんは復興の方針が定まらない迷いの表情になった。いのちからがら生き延びた住民にも疲労が蓄積していた。瓦礫の片付けや建物の取り壊しにはまだまだ時間がかかる。被災地における復興とは、「建設」から始まるのではない。被災建物の「破壊」から始まるのだ。復興への道筋の厳しい現実を知らされている。

津波被害の痕跡を残す釜石港

瓦礫で埋まった新田さんの自宅の前で

5・被災地にゆれる赤い旗

2011年6月10日(岩手県釜石市中村旅館にて)

3度目の岩手県「釜石」入りである。相談は6月10ー11日の2日間。相談者は11日の午後から一人予定されている。相談を始めて2回目であるが相談者がいなくても苦にはならない。私にとって震災前の「釜石」は、友人、知人が一人もいない。震災がなければ無縁の地であった。知名度もないし啓発も不十分である。相談者もいないだろうと思っていた。現地で啓発活動を展開しなければならない。それに、被災者相談は未知の体験だけに不安も漂う。

出発の朝、ホテルのまわりを散策しながら相談に臨むこころ構えを整理した。
1.平常心で相談にのぞもう。
2.ひたすら「傾聴」に徹する。
3.ひとりの相談者にじっくり時間をかける。
4.生きる希望と勇気を与える
5.過去の相談体験を信じて向きあう。

9時半「釜石」に到着。無目的に商店街をぶらぶら歩く。被災地の悲しみを体に浸み込ませるための何時もの行動だ。被災地の風、光、臭いを五感に感じさせる。街を歩くに連れて復興の困難さがじわりと体に浸み込む。前回よりも店舗の取り壊しが進んだ。商店街が「歯抜け状態」になった。住宅も倒壊している。商店街の顧客は極端に減るであろう。お客様がいなければ商店は成り立たない。復興計画も定まらないし瓦礫の撤去も進んでいない。震災から3ヶ月も経つのに政治家は「何やっているんだ」と言いたい。あまりにも悲惨、あまりにも無残な被災地の街並みである。それでも、商店主は体力、気力を奮い立たせて再起しようとしていた。商店街の入り口に「食堂」と「スポーツ洋品店」がオープン。中央付近に「ブティック」が開業した。3店舗の開業である。商店街の一角に復興の光が灯りだした。

今回の釜石で「赤色の小旗」が増えたのが目つく。「緑の旗」「黄色の旗」も風にゆれていた。店の汚泥を片付けている商店主に聞いた。
「あの赤い旗はどんな意味ですか」と。
「ギブアップの旗です。建物を壊して下さい」という目印だと教えられた。港に近づくにつれて「赤い旗」は増えた。住宅は全壊である。店舗で残るのは10軒に1〜2軒程度か。後はすべての建物が取り壊しだ。

地震は建物を崩壊させ、津波は家族や友人、知人、親戚や仲間のいのちをさらった。家族のアルバムや仏壇の写真までもさらったのだ。自宅や店舗を失うことは単に「建物」を失うことではない。そこには家族の思い出がぎっしり詰まっている。自宅を失いことは過去の思いでも失う。楽しかった家族の団欒の日々の思い出を。店舗を失いことは商店主の「生きる希望と勇気」を失う。そして再起の道具を失う。建物の所有者はどんな気持ちで自宅のベランダや店舗の軒に「赤い旗」立てたであろうか。被災地に無数に立つ赤い旗。住民の平穏な「日常」が破れて希望の見えない「非日常」が血の涙を流しているようだ。

3ヶ月も経つのにこの現状だ

取り壊しを待つ釜石商店街の赤い旗

6・私はもう頑張れない

2011年6月17日(釜石キリスト教団駐車場テントにて)

2011年6月11日午後2時46分、私は釜石港に近いキリスト教会の前に立っていた。救援用に張られた赤いテントの一角で釜石を支援する外人部隊と共に黙祷の時を待った。犠牲者に哀悼を捧げるためである。3ヶ月前のこの日のこの時間、地震が発生、まもなく大津波が釜石港の防波堤を乗り越えた。震災の時を告げるアナウンスが流れ、港の方角から警報を告げるサイレンが鳴り響いた。3月11日のこの瞬間、住民は一斉に高台に走ったであろうか。建物の屋上に駆け上がったであろうか。車で避難に走ったであろうか。何度も繰り返された津波のテレビ映像が脳裏を走った。逃げ惑う住民に想定を超えた津波が牙を向いて襲ったのである。サイレンは「ウオーン」「ウオーン」と町全体をつつみこんだ。音は背後の山に反響して増幅した。被災者の無念と悲しみが、サイレンと共に私の体の中を突き抜けていった。とてつもなく長く感じた沈黙の時間であった。

6月11日は菅総理の「釜石」入りの報道が流れていた。地域住民は総理の訪問に何の関心も示さなかった。「やめる。やめない」の内輪もめにあきれているのだ。いま、被災者が求めているのは、行方不明者の捜索と瓦礫の撤去と仮設住宅の建設である。一日も早く「子供や両親や知人、友人の消息」を捜索し、一日も早く瓦礫を撤去し、一日も早く被災者に仮設住宅を提供してくれる政権を望んでいる。「夢と希望」を被災地に与える政権と復興の道筋を示してくれる政権を。「復興基本法」も決まらない。被災者のいのちが存亡に瀕しているのに何という体たらくか。釜石は死者・行方不明者1,231人行方不明者は361人に及ぶ。三分の一の魂が家族のもとに帰れないまま浮遊している。お盆までには、行方不明者を家族のもとに届けなければなるまい。

6月11日の夕闇が迫る頃。
救援所のテントで一人の商店主の話に耳を傾けた。老舗の店舗の社長であった。「あれが私の店です」と言って商店街の建物を指差した。店舗は津波でメチャメチャに壊れていた。彼は避難所で生活していた。被災の直後は気持ちが高揚し商売を再開するつもりであった。避難生活が長引くにつれて体とこころが疲れ果てた。疲労が蓄積したのだ。建物が壊される光景を見ているうちにこころがしぼんでいった。前途に希望も見えない。絶望感に襲われている。連日の「被災地」、「被災地」の言葉をうんざりと感じるようになった。
「再起をしようとしても、店舗は壊れているし、商売の道具は流されしまった。お客様も戻ってこない。この通り住民は誰もいなくなった。瓦礫の撤去も何時終わるかもわからない。店を再開しても借入金の返済は70歳台になります。疲れました。私はもう頑張れません。」とぽつんとつぶやいた。
老舗店舗の廃業が決まっていた。

商店街に近い救援所の前で支援部隊と語る

朝の釜石港を照らす太陽


7・絶望と希望の交差曲線

2011年7月9日(釜石市中村旅館にて)

震災後の被災者が時間の経過と共にどのような心理的変化を示すであろうか。被災者のこころの変化について興味深いデータがある。「図―1」は「新潟県こころのケアセンター」から提供されたパンフレットからの抜粋である。図の縦軸は被災者のこころのエネルギーの強弱を示す。横軸は時間経過を示している。個人差はあるにしても、被災者の心理は茫然自失期、ハネムーン期、幻滅期を経て回復への道をたどる。被災者に最初に湧き上がる感情は「助かった」という安堵感であろう。それと共に被災の甚大さと恐怖におののいて茫然自失に陥る。助かった人達は子供や両親の消息を捜索したり、仲間や地域住民の安否の確認であっというまに時間が過ぎる。「こうしてはいられない」感情に突き動かされて炊き出しや子供、高齢者等の生活弱者の支援にあたる。絆の確認である。また全国から自衛隊、警察官、医師、保健師や行政関係者も現地入りして支援活動が展開される。ボランテア団体や政治家、有名人等の応援コールが続く。「がんばれ東北」「頑張れ日本」の氾濫だ。これを「ハネムーン期」という。震災時から3〜4ヶ月がハネムーン期であろうか。しかし「ハネムーン期」もそう長くは続かない。被災地に秋風が吹く頃には支援部隊も次第に去ってゆく。その段階では住民の悲しみは消えていないし、自宅が新設されているわけでも、事業が再開されているわけでもない。厳しい現実を実感する時が来るであろう。「このままでいられない」気持ちと「いまの生活から抜け出せない」葛藤の表面化である。「図―1」は被災者が興奮状態で緊張と疲労が蓄積して幻滅期の坂を下ることを示している。

「図-1」を凝視すると被災者に向き合う相談のあり様が見える。
「図-2」は被災者相談のイメージ図である。被災者の相談を次のように組み立てた。
1.「ハネムーン期」からの転落を緩やかな曲線にする。
2.被災者のこころに寄り添いながら下から支える。
3.復活する力を信じさせながら「幻滅期」の底まで落とす。
4.絶望の底で「希望」を探して震災後の人生をスタートする。
5.必要な時に必要なこころの支援と再生支援を長期的に行う。


図-1


図-2

被災地における初期段階の経営者相談は(震災日から3〜4ヶ月)「自殺予防」の相談にはならない。事業の再生相談が中心になる。せっかく地震や津波の被害を逃れたのに、自殺したいと思う人はいないからだ。ひとり一人の相談者にじっくりと時間をかけて「聴く」だけに徹する。無理に奮起させる必要もないであろう。これだけの大震災に遭遇して平常心を保てない人のほうが正常な感覚の持ち主である。
一方で、絶望の暗闇から「希望」の列車をスタートさせる。絶望の闇にも希望の光は必ずある。暗闇が深ければ深いほど、わずかな光でも闇の底から見える。光の方向に向かって静かに事業再開の列車を走らせる。列車はどこかで絶望の下り列車と交差する。そこが「絶望」と「希望」の交差点だ。3年〜5年かけて交差点までふんばる。交差点を抜けると青空だ。「あきらめない」「あきらめない」・・・・・・。あきらめなければ復興の道筋が見えてくる。

日本キリスト教会・新生釜石教会前の赤テント。柳谷牧師、青森県「ほほえみの会」、釜石市「はなみずきの会」のメンバーと

4ヶ月目に仮設住宅が完成。新田国雄さんと

8・尊厳

2011年7月11日(岩手県遠野市「風の駅」)

2011年7月11日朝10時、岩手県大槌町の港に立つ。5月14日に次いで2回目の大槌町入りである。大槌町の港に立つと釜石の被災現場とは、全く違った感情に襲われてしまう。景色が違う。風が違う。臭いが違う。津波の破壊力の凄まじさに言葉を失う。全壊とはこのような光景を指すのであろう。町全体が巨大なグランドと化した。港に近い平地には一棟の建物もない。街が瓦礫の堆積場になった。同じ津波被害をうけても釜石港の近くは被害を免れた建物がある。事業の再開が可能な店が数店は残った。大槌町の商店街には焼け爛れた鉄骨の建物だけになった。地震と津波、その後に発生した火災の3重苦の被害が大槌町の中心街を壊滅させた。大槌町の惨状はマスコミ報道やこの文章では伝わらないであろう。人気の消えたグランドのような大地に立って穏やかに岸壁を洗う波の音に耳を傾けると、この町の悲惨さと復興の難しさが伝わってくる。震災とは、「かくも無残なものか」と涙が落ちそうになる。役場も流され、加藤町長も亡くなった。課長クラスの幹部職員は行方不明となった。行政機関が麻痺状態になった。震災による死者は787人、行方不明者827人、合計1,614人、町の人口(2010年国政調査・15,227人)の10%以上が亡くなった。地域住民の復興意欲を逆なでしてはいけないが、これで本当に大槌町が復興出来るであろうか。日曜日の朝ということもあろうが、街の中に復興の兆しは探せなかった。住民の人影は途絶えている。むかし繁栄した遺跡の都市を歩いているようだ。

港の近くで30名程の警察隊とすれちがった。
制服には「愛知県警」と書かれていた。全員が鉄棒とスコップを持っていた。メガホンを肩から下げた先頭のリーダー格に声をかけた。
「ご苦労様です。これから何をなされるのですか」
「ご遺体の捜索をします。まだ800人以上のご遺体が見つかっていません」
ときびきびとした返事である。
瓦礫に入り整列した。班長が地図を拡げる。一組の班が4〜5人になって鉄棒を地面に突き刺す。スコップで地面を掘る。衣類らしき物を引き出して捨てる。震災から4ヶ月にもなるのに、いまだ遺体の捜索が続いているのだ。昨日(4月10日)は35度の真夏日であった。今日も予報は35度をこえる。無人の荒野の片隅で黙々と遺体を探す警察官の姿に思わす頭が下がった。体が凝縮して尊厳の気持ちになった。崇高な姿にこころが打たれたのだ。時間をとめて見入っていた。秋田に帰るにあたって尊厳の感情のままエールを送りたくなった。
「ご苦労様です。頑張って下さい」と捜索中の警察官に声をかけた。
「有難うございます。気をつけてお帰り下さい」の返事が返った。
ひと気の消えた現場で、熱波に耐えながらひたすら自己の任務を遂行する警察官の姿。尊厳とは、こういう人達のために準備された言葉であろう。

ひと気の消えた大槌町の町並

「おでんせ(よくおいでくださいました)」と
感謝の気持ちを伝える垂幕

遺体捜索を前に打合せをする愛知県警の警察官

無人の被災現場でひたすら遺体を捜す

9・奇跡の一本松

2011年8月5日(岩手信用生協釜石相談所にて)

5度目の「釜石」入りである。今回は4日間(8月11日〜14日)の予定で被災地に入る。秋田から釜石までは230キロ。私の運転では片道約4時間。花巻市の「東和インターチェンジ」を降りた時間は朝9時であった。通い慣れてきた283号線を釜石に向かう。遠野市の手前の左折すべき交差点で、気が変わって直進して陸前高田市に向かった。釜石で一緒に相談をしている「岩手自殺予防センター」藤原敏博代表の出身地だと思い出したからだ。陸前高田市を見てから大船渡市、釜石と北上しよう。途中の農産物直売所で小菊や向日葵を買う。初盆がもうすぐだ。死者や行方不明者に献花したい。峠を越えて陸団高田市に着いたのは11時頃であった。

被災地を訪問しながらいつも思うのだが、リアス式海岸は地形が入り組んで道路の高低差が激しい。平坦で直線の道路は殆どない。この地形の特徴が地域住民の被害の命運をわけた。道路沿いは道端にひまわりが咲き、畑にはトマトや西瓜が熟するのどかな光景だが、海岸線に近づくと目を疑うような「仰天」の景色が広がる。陸前高田市は山並みが海岸線から離れていて津波を遮る障害物が無かった。平地が多いために被害も甚大になった。建物の解体が終わった市街地は、大槌町とは違う広大で凄惨な光景になった。道を歩く人もいない。防波堤の側で数人が写真撮影をしているだけであった。

防波堤のそばで二人の警察官に声をかけた。
「ご苦労様です。いま陸前高田市はどんな状態ですか」と。
「400人近いご遺体がまだ見つかりません。波打際で見つかることもありますし、がれきの中からも発見されます。」
「まだ遺体が発見されるのですか」
「ときどき海岸に遺体が上がります。がれきの中からも発見されます。がれきの捜索はご遺体を傷つけないようにして、側溝の土を手で掘る作業になります・・・・」
「もう白骨化していますか」
「殆どは白骨化しています。頭や足だけの部分遺体もあります」ということであった。言うまでもないが、部分遺体とは頭や胴体や足がバラバラになった遺体である。DNA鑑定以外に本人を確定できないとのことであった。
大槌町で遺体を捜索する「愛知県警」の方と話しをすると、気軽に写真撮影応じてくれた。名刺交換になった。「静岡県警察本部・警視」の名刺であった。

いま陸前高田市の海沿いに一本の松が屹立(きつりつ)している。住民はこの木を復興のシンボルとして「希望の松」または「奇跡の一本松」と呼ぶ。津波になぎ倒された松原にただ一本残ったからだ。震災前の海岸線は7万本の松が植えられた「日本渚100選」の高田松原であった。浜辺は子供や家族連れで賑わう海水浴場であった。遠浅の砂浜と緑の防潮林囲まれた海水浴場。入り江の遙か彼方には波静かな太平洋が広がっている。

目を瞑ると浜辺の夏の景色が浮ぶ。赤、青、黄色の色とりどりのパラソルが立ち並んでいる。若い男女が手をつないで浜辺を歩いている。ビーチマットで若い女の子が背中を焼いている。数人の若者がビーチボールを蹴っている。浅瀬で子供の浮き輪を引いた母親が歓声をあげている。頭からタオルを被ったおばあちゃんが孫を抱いている。入道雲が浮かび、カモメが松原の上空を旋回している。浜辺のざわめきと松林の蝉時雨が聞こえるようだ。いっときの幻覚に襲われて目を開けると、遠くの波打ち際には遺体を捜索する警察官の姿がぽつんとあった。後ろを振り向くと、そこは瓦礫が積み重なった茫漠とした被災地の荒野であった。あの日の平凡な幸せなどこへいったのであろうか。そして被災地の住民は、どんな思いでこの夏を迎えたのであろうか。

◆被害状況(陸前高田市の広報より)
・人口/24,246人
・震災死亡者/1,179人
・行方不明者/579人
・世帯数/8,068世帯
・被災世帯数/4,465世帯

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季節は巡る・大船渡市

10・津波てんでんこ

2011年8月6日(岩手県釜石市中村旅館にて)

三陸の沿岸の住民に伝承されている「津波てんでんこ」という言葉がある。「てんでんこ」とは「てんでんばらばら」の意味である。津波にあったら他人にかまうな。てんでんばらばらに裏山や高台に走れ。そうしなければ、家族が全滅して家系が絶える、という先人が残した警告の教訓である。今までも三陸海岸は何度も津波に襲われている。その度に多くの人命を失った。そのために「津波てんでんこ」の言葉が語り継がれるようになった。家族のいのちを犠牲にしても、自分だけ生き残って家系を絶やすな。「津波てんでんこ」には肉親のいのちさえ捨てて逃げなければならない津波避難の非情さが垣間見える。しかし、子供を見捨てて高台に走る母親がいるであろうか。使いにいった息子の帰宅を待たずに、両親だけが裏山に避難するであろうか。土壇場における家族の情愛は教訓を守るほどには単純ではない

以下は「釜石」で聞いた話である。
大学生の娘は春休みで帰郷中であった。3月11日2時46分、震災に襲われた時に娘は自宅(大槌町)にいた。母親は釜石で仕事の最中であった。従業員はすぐに高台に「てんでんこ」に逃げた。被害を免れた母親は「大槌」の娘の安否が心配になった。大学生であっても母親にとっては子供である。職場の仕事着のまま車で大槌町に向かった。母親はそのまま行方不明になった。娘も行方不明である。親子ともに津波にのまれたと思われる。自宅は流出して跡形もない。まだ親子の遺体は発見されていない。母親の遺体確認は仕事着が目印。娘の確認は遺体のDNAと東京のアパートに置かれたままの歯ブラシに付着した唾液の照合になるだろうとのことであった。「てんでんこ」の警告を守っておれば母親は犠牲にならなかったであろう。

「釜石」から「大槌」に向かう海岸線に中古車の販売店がある。社長夫婦と息子の3人で会社を経営していた。大津波の直前に、息子はお客に車を届けるために大槌町の市街地に向かった。港の近くで津波に襲われた息子は懸命に高台に走った。両親は息子の帰りを待って逃げ遅れた。一命を取り留めた息子が見たのは両親の無残な遺体であった。息子が津波に襲われた場所から会社まではどんなに急いでも15分はかかる。大槌町は震災直後の火災で燃え続けた。息子が両親を助けたいと思っても、がれきで埋め尽くされた道を帰る術はなかったろう。三陸の急峻な地形と津波の破壊力を目の当たりにすると「てんでんこ」の教訓が誇張でないとうなずける。

両親を救えなかった子供達は自分を責めている。親は自分のいのちに代えても子供のいのちを守りたかったと泣いている。町内会の知人、友人、商店街の仲間や同僚等、おびただしい数の人が津波に巻き込まれて死んだ。三陸海岸は悲しみの坩堝(るつぼ)だ。しかし、「津波てんでんこ」だもの、自分を責めることはないよ。どうにもならない時はどうにもならないのだ。己を責めるだけでは前に進めない。生き残った人達で頑張らなければ、死んだ人達が浮かばれまい。「津波てんでんこ」の通底には津波の悲しみにくれる人間への優しさがにじむ。

家族を救えなかった住民が自分を慰め、やり場のない悲しみをやわらげる時、つぶやく言葉ではないかしら。「『津波てんでんこ』だもの、どうにもならなかった」と・・・・・。
これも「釜石」の住民から聞いた話である。

●被害状況(大槌町の広報より)
・人口/15,239人
・震災死亡者/797人
・行方不明者/625人
・世帯数/5,674世帯
・被災世帯数/不明

広島の原爆ドームのようだ・大槌町

5ヶ月目にしてオープンした、ただ一軒の屋台・大槌町

大槌町の港で海上献花・秋田・こころのネットワーク、
青森県「ほほえみの会と「エール」の会のメンバー

いまだ消息不明の霊に届いて欲しい

あきた自殺対策センター 蜘蛛の糸

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