11・天国と地獄
|
2011年8月23日(秋田・「蜘蛛の糸」事務所にて)
|
岩手県釜石市の地理的位置を確認しておこう。釜石市は岩手県の南東部に位置する。国道45号線で大船渡市、陸前高田市と南下すると宮城県につながる。世界3大漁業の一角をなす三陸漁業の中心都市である。
岩手県は南北に長い県域で、同時に東西の幅も広い。内陸部を国道4号線と東北自動車道が南北に貫通する。この基幹道路から肋骨のように枝線が日本海の市町村に延びる。釜石には「釜石道路」で花巻市から約70キロの道のり。途中に1000メートル級の急峻な北上山脈が聳え立つ。山脈は幾つもの峰を連ねて海岸線に迫り、急峻な岩肌をむきだして太平洋に滑り落ちる。ノコギリの歯のように入り組んだ地形がリアス式海岸の特徴だ。
岩場はウニ、アワビ、海草の一大生息地である。釜石は湾の奥に市街地が形成され背後に北上の山々を背負う。前方は波濤渦巻く太平洋だ。明治期は「猿も越えない仙人峠」といわれた北上山地の峠を越える。近代製鉄発祥の地であり、最盛期の人口は9万人を超えた。高炉の休止に伴って人口が減少して現在は39,996人。(平成23年2月末)企業城下町の常として会社の隆盛と衰退が釜石市の衰運と重なる。
仙人トンネルを抜けると国道283号線は緩やかに下って市街地に入る。道の両側に商店や住宅地が立ち並ぶ。津波や地震の痕跡をとどめない。あまりにも平和な光景に唖然とするくらいだ。信号機が復旧しない「釜石駅」の交差点で警察官が交通整理している。このあたりから雰囲気が一変して被災地の空気になる。甲子川にかかる橋を越えると地元住民が「まち」と呼ぶ釜石市の旧商店街だ。
マスコミ報道で、いかにも釜石全域が被災したかに思っていたが、現地の状態は違っていた。釜石港に近い商店街と漁港近くの集落、釜石港に流れる川沿いの集落が被害を受けた。高台やそれ以外の地域は全く被害がないといっていい。住民は被災地域を「地獄」と呼び、被災を免れた地域(釜石駅周辺、中妻町、上中島町、高台等)を「天国」と呼ぶ。
3月11日の津波で「地獄」(住民の言葉のまま)の住民は住宅や店舗が流された。大勢の家族、親戚、友人、知人、同僚も死んだ。震災の日から1ヶ月間はがれきに埋まった遺体の捜索であった。一人の住民がは平均で3〜4人の遺体を発見したという。その後は避難所での炊き出しと生活物資の調達に追われた。お互いをかばいあい、励ましあって、あっという間に5ヶ月が過ぎた。絶望と呆然自失の気持ちでお盆を迎えた。家族や町内会や仲間の救援に翻弄されたまま8月10日には仮設住宅への移転である。「地獄」の住民や商店主は事業や仕事のないまま消費者に変わっていった。「天国」の商店街は被災住民の消費の受け皿になった。更に全国から自衛隊、警察官、マスコミ、行政関係者、ボランテイア団体、芸能人等の支援部隊で「天国」の移入人口は溢れかえった。支援部隊は「天国」のホテル、旅館に宿泊し、商店街で生活物資を買う。「天国」の商店街は繁盛し、民宿も満室、居酒屋のカウンターも予約が必要な程の賑わいだ。
「地獄」の住民は「天国」の繁栄を横目に見ながら過ごしている。「地獄」の商店街は復興も進まないまま置き去りにされた。経営者は自分と相手が同じ土俵での競争には耐えられる。しかし、同じ被災地で、他の地域の繁盛には羨望と嫉妬の感情がわく。羨望は感情対立を生み、嫉妬は感情悪化につながる。被災地の住民間に微妙な感情格差が芽生えたようだ。
開業したばかりの「釜石ベイシティホテル」前の路上で商店主との会話になった。
「だいぶ、店の開業も増えましたね。陸前高田や大槌町よりは復興が早いのではないですか」。
「外部の人には復興が始まったように見えるでしょう。建物が残っていますから。しかし、この建物の殆どは解体します。建ってる建物はがれきと同じです。がれきが『縦』に建っているだけです。目の前の街は『縦』にがれきが連なる商店街です」。
「まち」にホテル、コンビニ、食堂、居酒屋、すし店、弁当屋がオープンした。復興は静かに進みだした。一方で、「赤い旗」(解体の意思表示)の商店も増えた。震災から5ヶ月。「天国」の繁栄と「地獄」の復興がせめぎあう被災地釜石の現状である。
●被害状況(釜石市広報及び岩手県HPより)
・人口/39,996人
・世帯数/17,561世帯
・震災死亡者/883人
・行方不明者/299人
|
|
12.「たっか」と「ゆった」
|
2011年9月14日(釜石浜町「釜石ベイシティホテル・レストラン」にて)
|
「たっか」と「ゆった」の話をしよう。
住民の救出に命を捧げた二人の男の話である。
「たっか」と「ゆった」とは陸前高田市の職員であった。3月11日の震災の時に、「たっか」と「ゆった」がどのような行動をとったかは定かでないが、押し寄せる津波から住民の命を救うため、懸命な救出活動をしたに違いない。陸前高田市の消防団員が、津波に逃げ惑う住民の姿を撮影し、インターネット(「ユ―チューブ」)に流している。絶え間なく鳴るサイレンの音。逃げ惑う老人、自転車で逃げる婦人、渋滞する車の列、危機を感じないのかゆったりと歩く人、消防団員は声を限りに「津波がくる、逃げろ、逃げろ」「早く、早く」「堤防を越えたから逃げろでば」と絶叫している。映像は住民の混迷と恐怖の姿を迫真で映し出す。牙をむいた津波が砂塵を上げて住民の後ろから襲いかかった。消防団員であった「ゆった」の行動はビデオを映した消防団員、そのものであったろう。「ゆった」がどの場所で津波にのまれたかは、知る由もないが、住民の命を守るため奔走して当然のごとくに逃げ遅れた。消防団員の職務は住民よりも先に避難することを許さない。職務に忠実であればあるほど、住民の命を救うために、最後まで奔走する。そして、生き延びることはできない。それが「住民の命を救う」消防団員に課された使命だからだ。
8月7日は陸前高田市の「けんか七夕」であった。
「けんか七夕」は名前の通り山車と山車をぶつけ合う威勢のよい祭りだ。4台の山車の内の3台が津波に流され、今年の夏は、山車1台だけの祭りとなった。山車の上には数人の男が乗る。住民が縄を引く。飾りつけた纏(まとい)と赤、緑、青の短冊が華やかに風になびく。去年の8月の祭りの時は「たっか」と「ゆった」は赤い半纏を纏って山車の後方にいた。太い丸太を押して山車の舵を切っていた。「ヨーイ、ヨイ」と大声をあげていただろう。今年の「たっか」と「ゆった」は健康な笑顔を浮かべてパネル写真の人となった。「たっか」も「ゆった」も美男子であるから祭りの人気者であったろう。夏祭り「けんか七夕」。仲間達は二人の遺影を飾って鎮魂のまことを捧げた。
写真の周りにはいっぱいの寄せ書きがある。
そこには「俺たちは決して忘れない.君たちと七夕の事を」と書かれ
・「たっか」「ゆった」ゴメンナ.来年もやるからね。
・ さびしいけれど、俺らにまかせろ!!1年に一回ぜったい来い。
・ たかさんいつも迷惑をかけてゴメンなさい.でもたかさんが大好きだ!
・ 「たっか」「ゆった」このえがお。一生忘れない。
等と書かれていた。
「けんか七夕」の通り道に、車庫か物置の残骸がある。一人の男が高さ2m程のコンクリート枠の上で、男が「けんか七夕」を見ていた。鉢巻をきりりと締め、旗を振っている。その旗には「上六 負けない。よいやさー」と書かれていた。
矢島記者(朝日新聞秋田支局)は男にカメラを向けた。
そして、聞いた。
「これで、少しは復興しましたか」
親父さんは言った。
「この光景を見てくれ。まだまだ復興などしないよ。津波に流された「たっか」のためにやっているんだ。今でも赤い半纏を着た「たっか」が山車の後を押しているような気がする」。
祭囃子の太鼓を叩く男の姿があった。「ゆった」の兄であった。
行方不明になった「ゆった」の代わりに叩いていた。
兄さんは矢島記者に言った。
「祭りを無くしたら弟の戻る場所がなくなる。祭りばかであった弟の魂が陸前高田の夏祭りにいつでも戻れるように『けんか七夕』をやっている。」。
「ヨーイ、ヨイ」「ヨーイ、ヨイ」。威勢のよいかけ声と太鼓の音が男の背後に連なる北上の山地に鳴り響いていた。
がれきと化した無人の街「陸前高田」。住民の命を守るために逝った二人の男。「たっか」と「ゆった」。悲しい、悲しい物語であるが、永遠に語り継がなければならない「いのち」の物語である。陸前高田市の死者・行方不明は1,826人。殉職した二人のヒーロー「たっか」(村上崇之、当時46歳)と「ゆった」(中村豊32歳)の名前もその中に含まれる。

写真左が「たっか」(村上崇之、当時46歳)と右が「ゆった」(中村豊32歳)
|
|
|
短冊の表には明日の希望、裏には昨日の不幸が書いてある
|
「たっか」と「ゆった」を死を惜しむ男性
|
|
|
夏草の生える陸前高田を駆け抜ける「けんか七夕」
|
|
|
|
(去年の夏には、「たっか」と「ゆった」も
祭りの中いた
※2010年8月撮影)
※朝日新聞秋田支局・矢島大輔記者提供
|
|
|
13.「坂道」と「ひまわり」
|
2011年9月23日(秋田市・太平山リゾート公園にて)
|
|
|
14.我没子(めいふあず)
|
2011年10月20日(秋田・駒ヶ岳観光ホテルにて)
|
中国に「めいふあず」という言葉がある。日本では、これを「もうダメだ。仕方ない」とあきらめることだと思っている。ところが、中国では、そんな風には使わない。「仕方がない、よし、やり直しだ」と言う時につかう言葉である。終わることを悲しまず、終わることは即ち始まることだ、という、からっとして明るく能動的かつ積極的なものが「我没子」の内容である。
(伊藤肇「左遷の哲学」より)
「めいふあず」の言葉を初めて知ったのは約20年前であろうか。40代の前半、経営の道に迷い、東京・千代田区のパレスホテルで開催される「日本経営合理化協会」の経営セミナーに通っていた。セミナーの帰途に立ち寄った東京八重洲の「ブックセンター」で一冊の本に出会った。その本を立ち読みして体に電流が走った。夢中になって読み続け、夜行列車に遅れそうになったのを覚えている。著者は伊藤肇、本の名前は「左遷の哲学」という。運命の書との邂逅(かいこう)であった。伊藤肇は人間学の泰斗(たいと)である。日本のトップクラスの経営者に数々接して、生身の人間の生き方を中国の古典と重ねた。
そこには、人間そのものの生き様が映し出されている。「左遷の哲学」は中国4千年の教訓から学んだ人間学の本である。
中国古典は生きる知恵と格言の宝庫だ。民衆は治乱興亡の歴史のなかで、時の権力者に虐げられ、内乱に巻き込まれ、側為政に搾取され続けた。天変地変や戦乱に巻き込まれ、家族や親族、友人を失った時に、絶望のはてに膝頭をかかえて「めいふあず」とつぶやく。濁流渦巻く揚子江、大蛇のようにのたうつ黄河、滔滔と流れる大河の断崖から川面を覗き込んで、己の存在の小ささを確認するのだ。そこには、悠久の歴史の縦軸と広大無辺の大地の横軸の交点が存在する。
「ああ!どうにもならない。どうにもならない時は、どうにもならない」と涙を流し、己の小ささを実感する。暫(しばし)の慟哭の後に来るものはこころの澄みきった諦観であろうか。
「めいふあず」に希望が託されていることを知ったのは、それから数年後のことであった。秋田県に中国人を支援するボランテイア団体がある。団体の代表の根田さんから「めいふあず」の意味を聞く機会があった。根田さんは「めいふあず」には「希望」が含まれています。どんな逆境にも希望はあります。8割の絶望と2割の「希望」。それが「めいふあず」の意味です。滂沱(ぼうだ)と涙を流した中国の民は涙が乾くと地の底からでも這い上がる。そして、明日の希望に向かって静かに歩き始めるのです」と教えてくれた。震災後7ヶ月が過ぎて、被災地の住民も希望の道を求めて歩き出した。中国民衆の生きる希望「めいふあず」は、被災地の住民の生きる希望に通じる。
|
<このページの先頭に戻る> |
15.がれきの街から希望の列車が走る〜菅野商店〜
|
2011年11月3日(NPO法人「蜘蛛の糸」事務所にて)
|
2011年10月12日、朝8時30分、釜石駅頭に立つ。目の前は噴煙が棚引く釜石製鉄の溶鉱炉。白煙の後は山頂から紅葉が始まったばかりの北上山脈。白煙と紅葉が美しいコントラストをなす。駅の背後は銀鱗群れなす秋鮭が遡上する甲子川。2011年3月11日、午後2時46分、この川を、人、車、船舶、家屋等を飲み込んだ巨大津波が轟音を響かせて駆け上った。いまは清流が川底を見せて穏やかに流れている。今日で8回目の釜石入り。これから被災地の現状と復活の状態を知るために「甲子川」を渡り釜石商店街に踏み込もうとしている。
被災地「釜石」で復興する一人の商店主の姿を描こう。
菅野司さんが相談に訪れたのは、2011年5月13日の午後であった。場所は釜石・中妻町にある「岩手県信用生協釜石出張所」。震災の日の2ヶ月後であった。数日前に、「蜘蛛の糸」の活動が地元紙「岩手日報」で報道されたのが菅野さんの目に止まった。自殺問題の記事であったから相談の対象にはならないと思ったが、「まず、出かけて見よう」と意を決して「信用生協」に電話をかけたのが初回相談のきっかけであった。菅野さんのその日の様子といえば、津波の後遺症と月3回の人工透析の疲弊が重なり、顔面は蒼白、不安の表情であった。小柄な奥さんは赤いスカーフを被ってうつむき、顔をマスクで覆っていた。
菅野さんは疲労の溜まった顔で語り始めた。
「私の会社は業歴80年の老舗です。震災前の売上げ規模は1億円でした。弁当と冷凍食品と惣菜店を経営していました。釜石の目抜き通りに「かまどや(弁当店)」、裏通りに冷凍食品と惣菜の加工場がありました。従業員は15人程でしたが、震災後に全員を解雇しました」。
「すると、いまは休業状態ですね」。
「とても、店をやる気力がありません。いまは後片付けで精一杯です。地震の次の日に家に行ったら居間はがれきの山、窓は壊れ、ブラインドは落ち、家中泥だらけでした。天井まで水に浸かったのです」。
「商店街の状態はどうなっていましたか」。
「めちゃめちゃでした。車道には車はひっくり返っているし、泥の上に廃材や丸太はごろごろしていました。なによりもびっくりしたのは、チョウザメがあちこちに散乱していたことです」。
「この辺の海でチョウザメがいるのですか」。
「近くの川沿いに養殖場があります。チョウザメはそこから流されて来たのでしょう。1メートルもある魚が泥の中から頭を出していました」。
「・・・・・・・・」。
「あまりにも悲惨な光景に肝が冷えてしまいました」。
私は菅野さんに、震災前の店の在り場所を尋ねた。
店舗は大渡り商店街に『かまどや』、裏通りの商店街に本店があった。
「『かまどや』のある商店街はどうなっていました」。
「こちらもこちらで大変な状態でした。車道には車と車が重なり、商店街の2階のあちこちは車が突っ込んでいるではありませんか。『かまどや』は店の半分が傾き原形を留めていませんでした」。
事業の将来への不安と2重ローンを抱えて、菅野さんは途方に暮れていた。
菅野さんはさらに言葉を続けた。
「いまの気持ちは暗闇です。金庫も預金通帳も流されてしまいました。金もありません。部屋の壁紙も障子も自分達で貼りました。これからお金が幾ら掛かるかわからないので、全て自分達でやっています」。
「奥さんは津波の時にどうされましたか」。
奥さんがマスクの奥から声を出した。
海水でも飲んだのであろうか、声がかすれていた。
「私は津波が押し寄せた時、とっさに二階に逃げようとして、慌てて階段で躓きました。そしたら津波が足元まで押し寄せて、浚(さら)われそうになりました。急いで階段を駆け上ってベランダに出たのです。そうしたら・・・・」。
奥さんは絶句して声をつまらせた。
「津波が商店街の方から目の前の道路を駆け上っていきました。自転車や車、住宅の柱やゴミが波しぶきを上げた濁流となって、高台の釜石小学校の方に向ったのです」。
「人も流されませんでしたか」。
「白いライトバンの運転席に年配の人が乗っていました」。
「知り合いの人ですか」
「気持ちが動転していましたので、人の見分けは付きませんでした」。
「その人はどうなさいましたか」。
「車の中で『助けてくれ』『助けてくれ』と叫んでしました」。
私は思わず身を乗り出した。
「それで・・・・・」。と聞いた。
「高台にいったん押し上げられ、物凄い勢いで海の方向に引きずられていきました」。
「・・・・・・」。
「奥さん、よく無事でしたね」。
「自宅が港よりも、少しだけ高い位置にありましたので災害を免れたのです」。
「・・・・・・・・・・・。」
「ベランダの下まで波を被りました。波が引いた後は放心して動けませんでした」。
菅野さんとの2回目の面談は6月18日であった。場所は「岩手県信用生協釜石出張所」である。菅野さんは、前回と打って変わった明るい表情になっていた。奥様は相変わらずマスクで顔を隠していた。
まず、私が会話の口火をきった。
「先回よりは、元気になられましたね」。
「先生と会ってから元気になりました。先生と会ってお話していると元気が出ます」。菅野さんは元気な声でいった。
奥さんが「この人はこうしてすぐ元気になるんです。この人は仕事をやりすぎるんです。そしてやりすぎてからいつも後悔するんです」。
とマスクの奥でくすっと笑った。
「被災地の経営者に希望と勇気を与えるのが私の仕事です。秋田県で10年間、『中小企業経営者のいのち』に向き合ってきた、私のノウハウが何か役に立つのではないかと考えて秋田から来ました。土壇場での相談の体験が被災地での経営者の役に立つのではないかと思っています。菅野さん、これから会社を再生するには、どんな方法でなさいますか」
「震災の恐怖が、頭にこびりついて、会社のことは考えがつきません」
「でも、会社の復興はしたいでしょう」
「はい、何が何でも立ち上がって見せます。」
「それでは、会社を再生する前には良く考えて下さい。動物でもジャンプする時はまず、縮むでしょう。蛙も縮まないとジャンプはできませんよ。これから菅野商店を立ち上げるには、出来るだけ縮こまることです」。
「縮むとはどういうことでしょう」。
「いろんな食品の販売をやめて、菅野商店の得意の分野のものだけを残す。商品構成を絞り込むことです。菅野商店の得意な分野は何ですか」。
「惣菜と弁当、それに冷凍食品です」。
「それなら、弁当だけに事業をせんか」。
菅野さんはやや興奮気味になった。事業の進め方にヒントが見えたのだ。
「私は前の規模に売上げを戻すことだけを考えてきました。そんなことは出来るはずはなかったのです。先生に、まず家族経営に徹しなさい、家族が生きることだけを考えなさいと言われて目が覚めました。いまは家族が生き抜くことだけを考えています。あれもこれもと考えて何も前に進みませんでした。先が見えて来ました。6月6日に久美子(長女)に孫が生まれたこともやる気を引き出してくれました」。
「店のオープン予定はいつですか」。
「8月1日に開くつもりです」。
「そんなに早く準備ができますか?」
「間に合いますよ。先生・・。先生に言われてから家族全員で予定を全部組みましたよ。あとは内装と厨房器具を置けば準備オーケーです。将来的には惣菜は別の所で販売したいと考えています。3年ぐらいの計画で、あんまりあせらないで前に進みたいと考えています」。
長女(久美子さん)が生まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら言った。
「小さい時から両親を見ていましたから、絶対這い上がると信じていました。父親は勇気のある人で、丈夫な人なんです。挫折しても、挫折しても、挫折をバネに跳ね上がってきます。菅野商店も父親が切り開いてきました」。
と陽気な声でケラケラ笑った。
私は菅野さんに問いかけた。
「どんな商品を造るのですか?」
「秋刀魚を半分に切って、二つ入れの真空の化粧袋に入れて300円で販売します。昆布はやわらかく味付けた結び昆布。小さく一口サイズにした三陸産の「味付け甘露煮」を100グラム300円で販売します」。
「そんなに早く商品は作れるのですか」。
「大丈夫ですよ。菅野商店の暖簾にかえても良い商品を作ってみせます。スーパーさん用に半額の商品も考えています。商品が出来たら手始めに、今までにお世話になったところに贈ります」と、事業の将来に希望を覗かせた。
「先生、とうとうここまで漕ぎ着けました」と、言葉が途切れた。
隣で話しを聴いていた奥さんの目からも涙が零れた。
「あの困難から良くここまで立ち上がってきましたね」。
私に感情移入が始まっていた。
「本当に大変な状態でしたね。震災のときはどうなるかと思いました。あの日のことは思い出してもうんざりします。津波の後に家に入った瞬間には人生がもう終わりだと思いました。二ヶ月位たって、先が見えない時に佐藤先生に遭って、暗闇の中で方向を示してくれました。この方向に行けばいいよ、と教えてくれたのが先生です。それが無ければ今頃は・・・・・。先が見えてからは早かったですよ。この2ヶ月間は具体的なものが見えてきて、時間の経つのが早かったです」。と赤みが差した顔で笑った。
「もう大丈夫です。私もほっとしました」。
「トンネルの向こうに光が見えました。家族会議の結果、店のオープンを8月1日に決めました。これで復興の一歩を踏み出すことが出来ます。人生が楽しくて、楽しくてしょうがありません」と、ルンルンの表情になった。
菅野さんは何かが「ふっきれ」ていた。それから菅野さんの「生きる希望」は見る見るうちに回復していった。菅野商店は予定を10日遅れて8月11日に開業した。
「菅野さん、避難所生活を考えたらどんな苦労にも耐えられるでしょう」。
「最低限の生活が何ヶ月続きました。今は本当に贅沢だと感じます。家にあるご飯と缶詰だけで食事しても幸せを感じます」。
「ドン底を見た人間は何者も恐れなくなりますよ」。
「先生も倒産なさった方だそうですね。ご苦労なさったでしょう」。
「まず、まず、その話は何時かします」。
「おかげさまでした。気持ちが楽になりました」。
と菅野さんは、安堵の表情になった。
|
|
16.猟奇
|
2011年11月10日(釜石中村旅館にて)
|
被災地の住民は、震災から時が経つに連れて、次第に落ち着きを取り戻しつつある。震災直後は街角で話かけても顔を背けた人達も能弁に震災後の事実を語るようになった。身の周りに起こった悲惨な出来事を他人に語ることで、自分自身のこころを浄化させようとしているのであろう。以下は「釜石」の街角で拾った幾つかの「猟奇」な話である。
「猟奇一話」居酒屋「いなかっぺ」のカウンターでの話。
釜石市中妻町の住宅地の一角に「いなかっぺ」という居酒屋がある。20坪程の店舗である。魚料理専門店で地元のタコ、イカ、ブリ、マグロ等の新鮮な魚を食わせてくれる。店主の威勢の良さと気風に惚れて集まるのか、連日の満席である。「いなかっぺ」は、震災の直後から大繁盛店になった。その理由は、最初はマスコミ関係者やボランテアで賑わい、その後は地元医療機関や行政機関の関係者の息抜きの場となった。今は仮設住宅の住民や復興支援の業者で賑わっている。カウンターでさえも、予約しなければ席が取れないほどの繁盛店になった。
「いなかっぺ」に夕飯を食べに行ったのは、震災から4ヶ月後の2011年6月11日の夕方であった。店はサラリーマンや医師、看護師や復興関係のボランテイアでごった返していた。カウンター越しに店主がいうには、震災から4ヶ月経って、同級生同士の連絡が取れるようになったという。
同級生が集まると会話の出だしは決まっているそうだ。
「オメェ(お前)いぎでだが(生きていたか)。」
「誰と誰は死んだ」「誰々の子供が2人波にさらわれた。」
「○○は子供と母ちゃんとおじいちゃんが流されて一人になったど」
「それにしても、同級生の○○に会いたいな。まだ、まだ海の中にいるからな」
「たましこ(魂)でもえがら(いいから)戻って来てほしな」
「この間の晩に海岸線を走ったば、●●が助手席が乗ったでば」
「俺さも▲▲が乗った。うれしかったな。じゃっかり、乗ってけだ(しっかり乗ってくれた)。しれは(白い歯)出して笑ってたでぁ。▲▲って声かけたば、けで(消えて)しまった。」
と言って、店主は顔を曇らせた。
「俺さも乗ってほしでば(欲しい)な・・・。店が終わってから2時頃に、海岸を走るども(けれども)、俺には一回も乗ってけなものな(乗ってくれないものな。同級生にはたましこ(魂)でも会いたいよ。まだ、同級会で、みんなで大笑いして生ビールのみてえな」。と鉢巻姿の店主の顔から無念の涙が零れた。
「猟奇第二話」釜石商店街で会った高齢女性の話。
女性の実家がある「鵜尾住(うおすまい)」の居住区は「釜石」から大槌町に下る国道48号線の入り江の低地にある。集落は太平洋にV字に口を開け、後ろに北上の山を背負う。集落の中央に川が注いでいる。周囲は険峻な屏風に囲まれたダムのような地形だ。川と山に囲まれた地形が甚大な被害をもたらす結果となった。ほぼ直角に海から襲った津波は低地の住宅、店舗、事務所、人、そして犬、猫等の家畜をも飲み込んで川を駆け上った。「鵜尾住」は「釜石」で最も甚大な被害を受けた集落となった。小さなエリアの集落で400人もの人が死んだのだ。
津波が波頭を立てて集落を襲った時に、高台の住民で写真に撮り続けた男がいた。男は3階のベランダから身を乗り出して集落に襲いかかる津波、人家と車と人間を飲み込む状態を取り続けた。眼下には、波に飲み込まれる人、車に乗ったままの人、流木にしがみ付いて助けを求める住民等、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵図が繰り広げられていた。写真を撮り続けた住民は、時が経つに連れて自分を責めるようになった。
「なぜ、あの時、私は写真をとり続けたであろう。なぜ、私は一人の人間に一本の縄を投げなかったのでそうか」と、他人を助けるための行動を取らなかった己を責めた。その後は断末魔の情景を思い起こして、頻繁にフラッシュバックに悩まされるようになった。こころの平穏が保てなくなった。精神科医の診察を受け「般若心経」に頼る日々を暮らしているということであった。
「猟奇第三話」釜石商店街の食堂店主の話。
「釜石」甲子川の近くの食堂の店主と立ち話である。
店主は、お客から聞いた話を次のように語った。
「大槌町は震災のあとに火災になりました。そのため、ようやく助かった住民も火災の犠牲になってしまったのです。廃墟に焼け爛れた建物の残骸は、広島に原爆が落ちたような景色です。」と、大槌町の惨憺たる景色を思い出して
「8月頃の夕方、廃墟の町の目抜き通り商店街を走る一台の赤い車があったそうです。警官は「赤いポルシェ」のような車を止めました。路上で尋問したら、運転主はパンチパーマで、助手席には若い子が乗っていました。警察官は同僚の警察官を迎えにいってから、注意をしようと振り返りました。そこには「赤いポルシェ」もパンチパーマの男も女の子の姿もなかったそうです。
「猟奇第四話」釜石商店街の女性通行人の話。
釜石商店街の中心地にベイシティホテルがある。
その前面の中央分離帯で中年女性から聞いた話である。
女性は「陸前高田」の友人から次の話を聞いたという。
「陸前高田の港に近い大通りを大型車が蛇行運転していました。自衛隊員が蛇行する車を止めて聞いたそうです。
『なぜあなたは蛇行運転をしているのか。』と。
運転主が言うには『あなたには人がいっぱい歩いているが見えませんか。あそこにも、あそこにも、いっぱいの人が歩いているでしょう。』
自衛隊員は車を降りて海水浴場につながる大通りを見ました。
道路の両側はがれきの山で、そこには人影が見えませんでした。
それで『誰もいないじゃないか』と言いました。
「あなたにはあの人の姿が見えないのですか。人の群れが海に向って歩いているでしょう。ほら、あそこに子供、あそこには消防隊、あそこにも女の人、そら、そこに、おばあちゃんがいるのが見えませんか。いっぱいの人が歩いているではありませんか。それが貴方には見えないのですか。運転手は自衛官の前で『海にむかう』人の群れを指差したそうです。」
被災地の「猟奇』な話は「秋田」で聞くと震撼するが、被災地でなら、何の抵抗も疑問も感じない。被災者の悲しみを聴き続けたせいか、被災地に「どっぷり」浸かっているせいであろう。震災から9が月経った被災地は発見されない人達の魂の浮遊地と化している。
|
|
17.震災時に被災地の住民が取った行動
|
2012年4月14日(岩手県遠野市りんどう荘にて)
|
「2011年3月11日午後2時46分、震災の時に被災地の住民は、どんな行動を取ったであろうか。慌てふためきながら、それぞれが自分や家族のいのちを守るための行動をとったに違いない。個々人がどのような行動を取ったか、昨年4月に震災地を訪ねて1年間、ひたすら「点」の個人に焦点を合わせて話を傾聴してきた。以下の文章は釜石市・大槌町で聞いた津波が押し寄せた瞬間の被災者達の行動記録である。」
1人目(釜石市50代男性)
釜石市の50代男性の話。震災の時に男性は釜石市役所で会議中であった。地震の一波が押し寄せるのを庁舎の3階から遠望した。津波は遙か彼方の海で立ち上がった。まず、地平線方向で海が盛り上がった。盛り上がりは次第に膨らんで立ち上がり「黒い壁」となった。黒い壁はゆっくりと高さを増した。それから両側に広がっていった。湾の入り口に築かれた「東洋一の湾口堤防」を越えた。そこからスピードを加速し、港に近づくに連れて膨れ上がり、波の先端は白い泡状となった。膨らんだ波の先端が「バーン」という轟音と共に二つに割れて釜石の商店街に襲い掛かった。白煙と共にあっと言う間に庁舎の一階まで波は押し寄せた。
男性は体が硬直して動けなかった。我に返ってから大槌町の母親の様子が心配になった。男性の自宅は庁舎から車で約20分の「鵜住居(うのすまい)」にある。波が引いた後に国道45号線を通って自宅に向った。国道45号線は起伏のあるリアス式海岸線を走る。大槌町に通じる道路は長い車の渋滞であった。車が渋滞して前に進まない。いらいらして怒鳴る運転手、クラクションを鳴らす運転手もあって国道は大混乱であった。余震が絶えず続いて車は前後左右に揺れた。
渋滞している混乱状態の車列に第二波が襲いかかった。波は海岸線の低地から国道を通り道にして男性の背後に迫った。男性は渋滞を避けて国道の左側の狭い歩道を全力で前方に走った。歩道に乗り上げた状態で数メーター前に進み、ハンドルを「咄嗟」に目の前の左の林道に向って切った。林道は小山に通じる道であった。
ハンドルを切る瞬間、バックミラーに後続車の男性の姿が見えた。男性も同じ歩道を必死で逃げて来た。男性の後に津波が迫っているのもバックミラーから見えた。後続車の男性も同じ林道を高所に逃れるために左にカーブを切った。だが、ガードレールの先端に車がぶつかり、カーブを切れきれなかった。男性が津波を逃れて背後を振りむくと、後続車が波に呑まれるのが確認された。男性は一目散に林道を駆け上った。二波が引いて男性が国道に戻るとそこには一台の車も無かった。渋滞した車は低地の集落に積み重なっていた。男性と後続車の男性の生死をわけた瞬間は1秒か2秒の判断の差と運であった。
2人目(釜石市40代女性生協)
同じ時間の3月11日午後2時46分、女性は釜石市の埠頭に近いビルの一室にいた。震災と共に津波を予感し、事務所にいた女子職員と共に非常階段を伝ってビルの屋上に駆け上った。階段はビルの中で仕事をするサラリーマンでゴッタ返した。
屋上に着いて遠方の海に目を向けると、異変が起きていた。港から潮が引いていった。港の底の岩肌が見えた。遠くまで引いた潮は海面を盛り上げゆっくりと近づいて来た。海は巨大な怪物のようにうねって防潮堤を越えた。防波堤を越えると猛烈な勢いになって、係留されている船を流し、埠頭の建物を壊し、住宅を呑み込み、車を乗せて濁流となって眼下を流れた。
街の背後の山を堤防の間の商店街と住宅は「ダム」のように波をせき止めた。その中に釜石の住民が翻弄されて地獄絵図が展開された。女性は放心状態になったという。数分の内に我に返った時、女性は大槌町の両親の安否が心配になった。ビルの階段を駆け下り、高台に置いていた車に飛び乗って大槌町に向った。
国道沿いの集落は粉々に破壊されていた。無我夢中で走った。釜石から10キロ程の所で津波に巻き込まれた。背後から黒い塊が押し寄せて来たが車が、渋滞して身動きが取れない。たまたま、女性の車の位置が起伏の多い国道の高い所に位置していた。泥の塊が車を襲い、車は翻弄されたが、波が引いていく時に右の電柱に車が引っかかったのである。電柱に引っかかったお陰で波に浚われるのを免れた。
津波が去った後は、渋滞していた車は跡形もなく消えて、路上には女性の車を含めて数台の車が残されているだけであった。女性は車をその場において左手の林道を必死になって逃げた。
「あの津波の時に車が電柱の引っかからなければ、私は生きていませんでした」とのことであった。
3人目(釜石市50代男性)
釜石市で聞いた50代の男性の話。港の近くに男性の自宅がある。震災の時に母親と一緒に自宅にいた。ただならぬ地震に津波を予感した。とっさに母親を背中におぶって逃れた。母親は懸命にしがみ付いてきた。100メートル程逃げた時、港の方角から津波が襲いかかった。
津波が襲った日の釜石は雪のちらつく寒い日であった。気候はまだまだ寒く、凍えるような泥の中を母親と共に流された。最初は流れてきた流木に片手でしがみついて片手で母親の手を握っていた。海水温は低く、波に奔流されている内に手がかじかんできた。波に浮かんでいる内に、母親を握っている手が寒さで痺れた。手を離してはならないと懸命に手を握った。しかし、時間と共に手が痺れて感覚が無くなっていった。もはや、母親を支えることは出来なかった。その時、母親が息子の名前を呼んだ。「○○。この手を離せ。お前だけでも助かれ」と・・・・・。
息子は母親の呼びかけで、咄嗟に手を離した。手を離した瞬間に母親は波に呑まれていった。助かった息子は、震災から時が過ぎても、その光景が脳裏から消えることはない。自分があの時に手を離さなければ、母親を死なせることはなかったと悔やむようになった。
「自分が親の手を離した。自分が親の手を離した。親を殺したのは自分だ」と自分を責め続けている。今でも「お前だけでも助かれ」と言った母親の言葉を思い出す。そして涙を流す。40代の息子と70代の母親との生死の別れの瞬間の話である。
4人目(大槌町60代男性)
男性の自宅は大槌町の中心商店街の西側にある。高い場所に位置しているため、町の幹線道路から被災した男性の自宅が見える。港から5〜600メートルの距離にあり、住宅の前面は広い庭で家も大きい。自宅が高い位置にあるので、2010年のチリ沖地震、2005年の宮城県沖地震の時も揺れはしたが、建物には被害がなかったし、波もこの場所まで押し寄せなかった。
2回の震災体験が油断を招く結果になった。「まさか」の油断である。震災の時に地域住民は男性の庭や住宅に集結して津波の来襲を見つめていた。波が港の岸壁を越えた段階でも、チリ沖地震や宮城県沖地震の体験から「まさか」この場所まで津波が押し寄せようとは思わなかった。過去の体験と油断が惨事を招いた。街の店舗と事務所と住宅を呑み込んだ波は、男性の家に集合した全員を呑み込んだ。男性も当然の如くに激流に揉まれた。
上下する波に浮かんだり、沈んでいる内に「もう助からない」と覚悟を決めた。住宅の廃材や車や漁業網等を避けて波の下に潜った。頭上は漂流物で塞がれていた。その時、頭上の漂流物の間に1〜2メートルの空間を発見した。そこだけに空から光が差し込んでいたのだ。その空間まで泳いで顔を出した。
すると、偶然に同じ空間に妻も浮かんでいた。二人は手を繋いで漂流物をかき分けながら山の斜面まで泳ぎきった。斜面の樹木にしがみ付き、山の斜面を這い上がった。夫婦ともに一命を取り留めたのであった。寒さに凍えながら一夜を明かし、自宅に帰った。そこで、瓦礫の中に横たわる父親の遺体を発見した。そして、長男の姿(中学生)はどこにも見えなかった。長男は未だ行方不明のままである。
男性は「偶然にも妻と同じ場所に浮かんだので夫婦のいのちが救われました」と述懐した。
5人目(釜石市の70代の女性)
私の被災地訪問は2年目になった。月3〜5日間のペースで定期的に12回、随時の訪問を入れると14回の被災地入りである。昨年、初めて「釜石」を訪れた4月18日は瓦礫の隣に満開の桜が咲いていた。翌日は小雪が落ちる寒い日であった。「釜石」の目抜き通りは瓦礫が溢れ、車は横転し、店舗も事務所も住宅も破壊された陰鬱な光景であった。
中心商店街から人影は消えていた。被災の直後に、港の近くで金物店を営む70代の女性の話を聞いた。店の2階まで津波にやられた建物は見る影もなかった。女性は泥だらけの金物を洗っていた。顔は蒼白であった。私が秋田県人であると話すと、女性は「私も秋田県人です」と言って秋田県北部の市の名を告げた。3月11日午後2時46分には、港に近い店舗で夫と共に客の相手をしていた。
店舗は海岸から50メートルも離れていない。その瞬間、津波を想定して夫の指示に従ってすぐに高台に走った。夫は店のシャッターを閉めてから客を誘導して逃げると言った。客もシャッターを降ろすのを手伝ってから逃げようとしたようである。高台の避難場所までは500〜600メートル位だ。息が切れそうな女性の背後から波が押し寄せてきた。波に足元をすくわれながらも、必死に高台の避難場所まで辿りついた。波が引いたが夫の姿が見えない。別の場所に避難していると思ったが、夫の安否が不安になった。
波の引いたのを見計らって瓦礫を掻き分けて店に戻った。道路は2メートル以上の瓦礫の山であった。店の2階まで壊れていた。夫を探して恐る恐る店に入った。店の奥に、夫と客の変わり果てた遺体があった。逃げ遅れたのだ。「浜町商店街」は10メートル以上の津波に襲われたと思われる。商店街から高台に通じる小道の住宅の壁面に「13.5M津波到達地点」と刻まれている。
|
|
18.復興の順番
|
2012年4月23日(遠野市・りんどう荘にて)
|
|